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銀屋町ゆかりの人々

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河本庄五郎:寛永年間に銀屋町の乙名(おとな)

寛永11年(1634年)、くんちの始まりにおいて当人の任に就き、祭事に関与しました。
その後の乙名には以下の方々がいました
河本勘兵衛  (寛文~延宝年間)
河本九右衛門 (宝永年間)
西 六左衛門  (宝永3年~)
西 久右衛門  (初代:元文~宝暦、二代目明和6年~天明7年)
賀古市郎右衛門(初代:天明7年~天保11年、二代目:天保11年~明治元年)

山本泰介長英:上野彦馬の祖父

銀屋町の傘鉾を文政3年(1820年)に製作しました

上野俊之丞:上野彦馬の父

寛成3年(1791年)生まれ、銀屋町に在住。一時期、御用時計師「幸野家」の養子となる
蘭学を学び、砲術・測量術を習得しました。その後、焔硝精錬所を作り、各藩の硝石御用達を務めます
天保12年(1841年)頃にオランダ人から写真術を習い、嘉永元年(1848年)日本で初めてカメラを輸入します
俊之丞が撮影した薩摩藩藩主「島津斉彬」の銀板写真は、日本人による現存する最古の写真とされています

上野彦馬:日本写真界の開祖

天保9年(1838年)銀屋町に生まれる。日田の私塾「咸宜園(かんぎえん)」に入門し、漢学を修めます。
長崎に戻ってからは「舎密試験所」で学び、そこで写真術と出会います。写真機の製作、撮影術の研究を開始し、文久2年(1862年)中島川河畔に上野撮影局を創設して、日本初の職業写真家になりました
坂本龍馬の肖像写真をはじめとして、明治時代の貴重な写真を後世に残すといいう大きな功績を残しました

糸岐千代蔵:銀細工商

文久2年(1862年)に南高有家に生まれ、11歳の時に銀屋町の銀細工職人に弟子入りしました
明治16年(1883年)銀屋町に「糸岐商店」を創業します。その後、船大工町にも出店し、ロシアとの取引や為替相場で財を成し、長崎屈指の銀細工商といわれました
明治40年(1907年)長崎で開催された第二回関西九州府県連合水産共進会に金銀細工を出品した3人の内の一人都の記録が残っています
なお、上記3人の出品者に「武藤倉吉 銀屋町」の名前もありますが、この方の詳細は不明です

白石六三郎(旧姓:武藤六三郎):料亭経営者

明治元年(1868年)銀屋町に生まれる。白石家の養子になり、上海に渡る。
明治31年(1998年)蕎麦屋「六三庵」、明治33年(1900年)料亭「六三亭」を開設した後
明治41年(1908年)6千坪の敷地内に日本庭園を完備した料亭「六山(花)園」を開設。日本人居留民の憩いと交流の場になったそうです。
大正元年(1912年)には敷地内に「諏訪神社(後に滬上神社に改称)」を建立しました

高野房太郎:労働運動の先駆者

明治元年(1868年)銀屋町に生まれる。少年時代に東京へ移り、若くして渡米し雑貨商を営むが失敗します。
その後に労働運動と出会い、帰国後「鉄工組合(日本初の近代的労働組合)」設立の中心人物となります。
 また、生協運動の創設にも深く関わったそうです。

高野岩三郎:房太郎の弟。社会統計学者

明治4年(1871年)銀屋町に生まれる。東京大学で学び、統計学の教授となる。その後、東大経済学部の誕生に尽力します。
大正9年(1920年)大原社会研究所の設立に参加し所長となる。戦後、日本放送協会(NHK)の会長となり、放送文化研究所を設置します

古賀十二郎:歴史研究家、長崎学の創始者

明治11年(1879年)生まれ。大正期に銀屋町在住との記録あり
大正8年(1919年)長崎市史編纂主任となり、「長崎市史風俗編」を完成させる
「長崎洋学史」、「長崎絵画史」、「西洋医学伝来史」等の著書を通じ、長崎全般の歴史研究「長崎学」を創始しました

森 敦:芥川賞作家

大正元年(1912年)銀屋町に生まれる。旧制第一高等学校に進学する秀才であった。
横光利一師事し、昭和48年(1973年)62歳の時に、「月山」で第70回芥川賞を受賞する。
主な著書に「酷酊船」(1934年)、「鳥海山」(1974年)、「わが青春わが放浪」(1982年)等
昭和62年(1987年)「われ逝くもののごとし」で第40回野間文芸賞を受賞