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我が町「銀屋町」

◆銀屋町の紹介

 銀屋町は、長崎市中心部を流れる中島川に架かる石橋「袋橋」から寺町の「皓台寺」に通じる通りに面した一帯です。
 長崎市役所までは北東に徒歩5分、繁華街の万屋町・浜町までは南西に5分程という恵まれた場所に位置しています。

 町の中央には「長崎リハビリテーション病院(是真会)」、中通りには多くの商店があり、活気に満ちています。

 中島川側には、銀屋町の名家「髙田」家が営む髙田酒店、銀屋町教会等の歴史ある建物や飲食店があります。

 皓台寺側には、川底に石畳が敷かれた「ししとき川」が流れ、その河畔には天満宮がありました。現在は銀屋町公民館が建てられ、天満宮は4階に祀られています。
 寺町の通りには仏具店が軒を並べています。

◆銀屋町とくんち

 鎮西大社「諏訪神社」の例大祭は、旧暦9月9日に行われたこともあって「くんち」の名で長崎市民に親しまれています。
 くんちが初めて行われた寛永11年(1634年)。当時の銀屋町の乙名であった河本庄五郎が當人を務め、祭事に関与したとの記録があり、その後も当番の度にくんちに参加していたようですが、奉納踊りについての記録はありません。
 銀屋町人気の奉納踊り「大名行列」は1819年に考案されました。銀細工の取引があった尾張徳川家の「鷹狩り」行列を表現したものと云われています。
 更に翌年傘鉾も新調されており、名古屋城のシンボル「金の鯱鉾」を模したものの、尾張家に遠慮して「出世鯉」と呼んだと伝えられておりました。

 その大名行列の奉納は昭和11年が最後となりました。  第二次世界大戦後の昭和25年と32年は「本踊」、39年は「奴道中」を奉納しました。

 ところがこの後銀屋町のくんち奉納は途絶えてしまいました。
 一番の理由は、昭和38年に国が制定した「住居表示法」です。昭和41年に銀屋町は古川町と鍛冶屋町に編入となり、江戸初期から300年以上続いた銀屋町が無くなりました。
 銀屋町の人々の嘆き・喪失感は大きく、奉納踊りを出すどころではなかったでしょう。それでも旧銀屋町の住民が組織した「銀屋通り自治会」がくんちを引き継いだことから、昭和60年に新しい奉納踊「鯱太鼓」での踊町復活へと繋がるのです。

◆「鯱太鼓」誕生

 昭和57年7月23日、長崎市は未曾有の大水害に見舞われました。銀屋町も中島川の氾濫により多くの家屋が1.8mの浸水被害を受けました。
 当時、銀屋町青年団の副会長であった高木忠弘は、銀屋町の名家「髙田家」の蔵を後片付けされているご婦人から呼ばれ、銀屋町の傘鉾を見せられたそうです。
 そして、『こんな立派な傘鉾があっとやけん、何かやってみんね。』と言われました。黄金に輝く鯱の飾りに圧倒された高木は『胸にグッとくるものがあった』と語っています。
 それがくんち奉納復活のスタートでした。

 「何かやろう」高木がみんなに諮って動き出したのがその年の12月。
 まず青年団でアイデアを出し合い、『担ぎ物+組太鼓』という鯱太鼓のイメージが出来上がりました。その後、自治会へ提案し、二度の総会を経て銀屋町のくんち参加が決まりました。
 そこに至るには、資金集めや反対者の説得など苦労の連続だったそうですが、若手(青年団)を信用して協力してくれた多くの町民のおかげだったと後に高木は述べています。

 高木にとって「長崎大水害のような災害が二度と起こらないよう願いを込めた」と「災害の復興に立ち向かう人々に吉祥が訪れることを願った」という二点が、『鯱太鼓を何故くんちに出すのか』の根っこにある思いです。
 それゆえ鯱太鼓には縁起の良いかけ声をふんだんに盛り込んだと語っています。
 二年間の練習を経て立った、くんちの晴れ舞台。前日の諏訪神社の奉納で、一発目の「上げ」を見事に決めました。参加した担ぎ手の誰もが「空高く舞い上がって、中々落ちてこなかった」と回想する伝説の演技で、鯱太鼓がくんちデビューを果たしました。

 鯱太鼓は傘鉾の鯱を乗せた担ぎ物というアイデアから発想を広げてできあがりました。その中には「大名行列」の名残も残しています。
 例えば、衣装の江戸脚絆。また、「入り」の演技で「すり足」を使うのもそうですが、一番のこだわりは「鯱を乗せる櫓=天守閣」だろうと思っています。
 銀屋町の人たちは、傘鉾の鯱と山飾の鯱が、天守閣に設けられた鯱鉾同様に雌雄一対だと考えており、山飾の鯱は鯱太鼓のシンボルとして一番のこだわりがあり、それゆえの愛着が感じられます。

 鯱太鼓は、演技構成を工夫したり新しい技にも挑戦しながらくんちでの奉納を続けています。
 それと並行して銀屋町は「お上り(神輿御神幸行列)の休憩所奉仕」「小屋入りで諏訪神社から八坂神社に向かう踊町への休憩所奉仕」「まちなか傘鉾パレードへの協力」等、くんちへの関わりを深めています。
 またこの鯱太鼓でのくんち奉納は、銀屋町の町名復活運動のきっかけにもなりました。その運動は実り、平成19年1月に銀屋町が復活。町の人々の願いが叶ったのです。

◆銀屋町の歴史

 銀屋町の誕生は江戸初期と思われますが、正確な年は判っておりません。長崎くんちは始まった寛永11年(1634年)以前に誕生したと考えられます。
 「銀屋町」の名前の由来は、銀細工職人が居住していた町と云われており、銀製の「鍔」や「かんざし」が作られた他、出島に輸入された金銀のボタンを帯留めに加工する等していようです。
 また、オランダ人が平戸に伝えた「銀線細工」の職人達が、鎖国によって長崎の銀屋町に移り住んだと言う説もありますが、当時の記録が無く詳細は不明です。

写真は、明治44年頃の「銀製髪飾」
銀屋町の銀細工商「糸岐商店」製作
長崎歴史民俗資料館 所蔵

 銀屋町鯱太鼓のリーダーである高木忠弘は、鯱太鼓が生まれるきっかけとなった高田家所有の傘鉾の鯱が『流金出世鯉』と名付けられていたことに疑問を持っていたようです。
 そこで、高田家の歴史を調査・研究したところ、その製作者が「上野彦馬」の祖父であったことを突き止めるのです。
 この件は、上野家の末裔「上野一郎」氏(産能大学最高顧問)へと伝えられ、上野氏は「納得のいく調査報告で有り、喜ばしく感慨深いものがある」と述べられました。
 銀屋町には、上野彦馬の他、その父「上野俊之丞」、労働運動の先駆者として知られる「高野房太郎」、芥川賞作家「森敦」が生まれています。

◆蘇れ銀屋町

 国は昭和38年に「住居表示法」を制定し、市町村に新しい住居表示を行うよう求めました。長崎市は「町区方式」を採用する条例を定め、昭和41年に町名町界変更を実施。銀屋町は、古川町と鍛冶屋町に編入され消滅しました。
 元銀屋町自治会長の吉村正美は、銀屋町が無くなったことを「国が決めた事だから従うのはしかたがない」と考える一方で、他町に編入されたことには寂しさ・やるせなさを感じていたと言います。
 「くんちで大名行列を続けていたら、銀屋町は残ったかもしれない」吉村はそう考えてように思います。鯱太鼓でくんちに参加した後に、鯱太鼓に参加した小学生から『銀屋町って、無いんだよね。』と言われて、申し訳ない気持ちになったと聞いたことがあります。
 このことは、銀屋町を取り戻したいと思うようになったきっかけの一つだった筈です。

 平成11年10月金沢市で旧町名が旧町界で復活したというニュースが届きました。当時の銀屋町自治会長平尾辰次は、そのニュースを聞いて磨屋小学校校区の自治会に呼びかけを行い、旧町名復活に関する勉強会「町会町名問題討議会」を発足させます。更に、『蘇れ銀屋町』のポスターや銀屋町の町名ステッカーを自主製作し、掲示・表示して貰いました。

 そして平成17年。銀屋町復活の動きは大きく動き出しました。
 まず、前年の平成16年に長崎市から「地元の合意があれば国と協議する」との方針を確認できました。
 平成17年4月29日の銀屋通り自治会総会で「旧町名復活を行う」という議案が、満場一致で可決されました。
 平尾の後を継いだ吉村は、5月17日に自治会役員・婦人部代表・企業代表等20名を引き連れて長崎市を訪れ、伊藤一長 長崎市長宛てに「旧町界での銀屋町復活について」の請願書を提出します。



 その後、銀屋町に隣接する「東古川町」地区の住民達も、「旧町界による東古川町」の復活を陳情しました。
 平成18年8月には長崎市が関連議案を提出し、9月の長崎市議会において「町の区域及び名称の変更」についての議案を全会一致で可決成立。
 平成19年1月9日、遂に銀屋町は復活しました。そして夜、銀屋町公民館前には多くの若者が集まり、くんちの自主練習が始まりました。
 吉村は、『くんち踊町の年に復活できた。応援して下さった方に感謝したい。』と述べ。
 高木も『町名復活は皆様のおかげ。鯱太鼓の奉納で長崎っ子、銀屋町っ子の心意気にお返ししたい。』と感謝を忘れなかった。