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銀屋町笠鉾「流金出世鯉」製作者について

< はじめに >

 銀屋町自治会
  会 長(当時) 吉村 正美
  副会長(当時) 高木 忠弘

 表題に掲げた銀屋町傘鉾「流金出世鯉」は、傘鉾収納箱の墨書きから文政三年「山本泰助」製作であることが知られていましたが、「山本泰助」なる人物の氏素性については何も判らずに今日に至っています。

 先に銀屋町の高田家と亀山焼きの大神おおがみ家の関連を調査し、更に崎陽三画人の一人「木下逸雲」と町内の上野家の関連を調べる過程で、上野家の歴史を知ることとなりました。
 幕末の著名な科学者にして写真家である上野彦馬の先祖は、御用時計師でもあった父「俊之丞しゅんのじょう」、祖父「若瑞じゃくずい」、曾祖父「若麟じゃくりん」とさかのぼり、いずれも絵師として優れた作品を残しています。
 この度、銀屋町傘鉾の作者である「山本泰助」について新知見を得たので、銀屋町自治会として発表致します。



 銀屋町自治会は、各種資料を勘案した結果、上野家5代目の「上野若瑞」が箱書きにある「山本泰輔長英」であろうと考えるに至りました。
 その根拠を、以下に述べて参ります。

 上野若瑞は、宝暦8年(1758年)12月生まれで、文政10年(1827年)6月没。したがって「流金出世鯉」が製作された文政3年(1820年)は健在です。
 「若瑞」は号で、通称は「泰輔」字が「長英」と判りました。(墓碑には「上野泰輔○長英」と刻んであります)
 また、「瓊浦画工伝」には父「若麟」の紹介があり、次男「若瑞」は「河村泰助」と称したと書いてあります。
 父「若麟」(これも号)は「山本丹次郎」と称し、唐館公用支配人という長崎の地役人であったとの記録があります。また絵師としても上野姓ではなく「山本若麟」と名乗ったようです。
 つまり名字の「山本」、名前の「泰輔」と「長英」のいずれもが「上野若瑞」に繋がります。

 「若瑞」の祖父である「若元」は、『若芝鍔』で有名な河村若芝に師事しており金属彫刻の技を持っていました。この為、その技術を「若瑞」も継承していたと思われます。
 更に銀屋町そのものが職人町であったでしょうから「流金出世鯉」が生まれる大きな力となったはずです。

 また、若瑞の妻「倫」の旧姓は「田中」であり、箱書きの田中順三・虎之助との縁もうかがえます。
 田中家も銀屋町ゆかりの家で唐船修理方の職務にあたり、一方で材木商を営んでいたそうです。

 この件は、上野家の末裔「上野一郎(当時、産業能率大学最高顧問)」氏へ報告し、納得と共に感慨深いとの評を戴きました。

上野家の概略

 上野家は長崎の絵師の家系であり、代々肖像画に優れ、また鋳金(金属加工)の技術にも秀でていた。
 風頭山頂に近い「上野」家墓地には、初代「英傳」、3代「道英(画号:若元)」、5代「長英(画号:若瑞)」、6代「俊之丞(画号:若龍)」、7代「彦馬」などの墓碑が建ち、同族である御用時計師「幸野」家の墓碑もある。

 上野家2代「英一」の養子となった3代「道英(旧姓:小川)」は、高名な絵師にしてつば師である河村若芝に師事し、佐賀の鍋島綱茂に絵師として仕えた。
 彼は師の名を嗣いで「河村若元」を名乗り、「華山若芝」の落歌を用いたものもある。

 その長子4代「長昭(画号:若麟)」は、『若麟の虎』と称せられる技量優れた絵師であるとともに、「山本丹次郎」として出島乙名附筆者小頭を務めた。道英或いは長昭が、出島筆者の地役人株をてに入れたのであろう。
 つまり受用銀を支給される長崎地役人の立場では、家号の上野に変えて山本姓を用いていて、絵師としても「山本若麟」を名乗っている。

 5代「長英」は、絵師として上野家代々と同じく肖像画に巧みであった。以下の系図で示したように、長英は銀屋町田中家の「倫」と結婚、6代「俊之丞」が誕生した。

 俊之丞は一時期御用時計師「幸野」家を嗣ぎ、幸野俊之丞を名乗った。それは、母の兄「田中順三(師興)」の子「吉郎八」が養子として幸野家を嗣いだ後、不祥事を起こして長崎奉行の不興をかった為である。
 ついでながら、田中順三の妻は時計細工人御幡家の女「牧」である。『続長崎実録大成』によれば、文政3年(1820年)には牧の子「幸野吉郎八」の受用銀を減ずるかたちで「御幡榮三」が御用時計師として新たに召し抱えられている。その御幡家も銀屋町の居住であった。

 ところで、上野姓に戻った俊之丞が、舎密学しゃみつがく(=化学)の知識を生かして、中島の邸宅(「停車園」と名付けられる)内に精錬所を設けて、焔硝(火薬)製造を行ったことは良く知られている。
 また、ダゲレオタイプの写真機を輸入して島津斉彬に献じた。これで斉彬を撮影したのが、日本における銀板写真の嚆矢こうしである。
 俊之丞の子が、日本最初の商業写真家といわれる「上野彦馬」である。その業績については記述するまでもないが、彦馬には絵師の系譜と御用時計師の知識が流れ込んでいた。
 すなわち、芸術と科学の融合から生まれたのが写真家「上野彦馬」であることを強調しておきたい。

「流金出世鯉」の作者 「山本泰助長英」について

 まず、収納箱の墨書きにある用語を説明しておく。「流金」とは鏤金るきんのことで、金属彫刻を意味する。また、「水銀泊」は水銀を使った鍍金めっきのことである。
 すなわち、銀屋町は「町印」として金色に輝く金属彫刻の「出世鯉」を傘鉾の飾りに据えたわけである。

 さて「山本泰助長英」なる人物だが、当自治会では、各種資料を勘案した結果、上野家5代の長英(若瑞)と同一人物ではなかろうかと考えるに至った。(以下、若瑞と表記する)
 その根拠を、古賀十二郎先生の著作「長崎画史彙伝」及び同書引用資料を中心に詳しく述べたい

○上野若瑞
 宝暦8年(1758年)12月生まれ。文政10年(1827年)閏6月没。行年71歳。
 皓台寺後山の上野家墓地に葬られる。法号を「丹霞斎祥翁若瑞居士」という。通称「泰輔」、字を長英、若瑞と号す。また、「祥翁」と号し、居を丹霞斎と云う。
 妻は田中氏。俗名「倫」。天保4年(1833年)没

 「瓊浦画工伝」の山本若麟の条によれば、『その子は「若融」で今町組頭の牛島甚左衛門のことであり、若融の弟が「若瑞」で銀屋町の河村泰助と言った。』とある。
 「河村」は祖父若元以来の通例であろう。このように若瑞は家号の「上野」以外に「河村」を称することもあり、父若麟の「山本」を使った可能性は高いと思われる。
 更に、山本若麟について述べよう。

 ○山本若麟
 享保6年(1721年)3月生まれ。享和元年(1801年)正月没。行年81歳。
 通称は「丹次郎」。諱は「長昭」。長英と称したものもあり、若麟と号す。また、「瑞翁温故斎・魯石」の別号もある。

 「長崎画人伝」引用の「昭和二酉年分限帳」によれば、「銀二貫八百目(内助成一貫目)出島乙名附筆者小頭 山本丹次郎」とあり、また「瓊浦画工伝」にも「若麟、唐館公用支配人、山本丹次郎」とあって、若麟は長崎地役人「山本丹次郎」を名乗っていた。
 上野彦馬の弟「幸馬」の孫に当たられる「上野一郎」氏の資料にも「唐館鈔局令の苗跡を相続し、山本丹次郎と称した」とある。若麟の場合、全ての資料が「山本」である。
 若瑞は父若麟から諱も号も引き継いでおり、「山本」も継いだと考えるのが自然であろう。

 ところで、「流金出世鯉」の製作者「山本泰助長英」が若瑞とすれば、彼が金属彫刻(金工)の技を持っていたかが問題となろう。この点は、上野家の系譜をたどれば自ずと氷解する。
 3代「若元」の師は『若芝鍔』でも著名な河村若芝であり、金工の技も上野家代々に継承されていた。若元の後、若麟・若瑞・俊之丞の歴代も若芝鍔の製作を行っていたのである。
 また、銀屋町そのものが町名の通り銀細工職人の町として発足した町であり、江戸時代後期に至っても職人町の性格は残されていたと考えられる。寬政3年(1791年)の「長崎地役人分限」(内閣文庫)には、次のような専門職・技術者が地役人として記されている。
 「流金道具目利」「御用御時計師」「御用御眼鏡師」「御用鍔師」「御用玉細工人」「御用銀細工人」「御用彫物師」「御用表具師」「御用鋳物師」「御用指物師」

 このうち「御用御時計師」は幸野氏である。文政3年に御用時計師になった御幡氏も銀屋町居住である。
 「御用鍔師」「御用銀細工人」などが銀屋町に居住していたかどうかは確認できないが、優れた職能集団の存在が無ければ「流金出世鯉」は生まれない。そしてその職能集団の中心に上野の家が位置していたと考えられるのである。
 最後に、収納箱の墨書きで気になることが一つある。これは収納箱正面に「田中記」とあるから、記したのは箱内側に書いてある「田中順三李祿・同 虎之助」のどちらかであろう。田中氏も銀屋町ゆかりの家であるが、この田中の部分はひときわ大きく書かされており、田中順三・同 虎之助(父子か)が「流金出世鯉」の製作に関しての取りまとめ、プロデューサー的役割を果たしたと想像できる
 そして、上野家縁戚系図にあるとおり、田中順三は若瑞の妻「倫」に連なる人物であることを考えれば、「山本泰助長英」が上野若瑞と同一人物である説がより補強されるのではないか。
 なお、「田中順三李祿」は三代続いた田中順三のうち文政10年(1827年)に51歳で没した順三儔興と思われる。田中家は銀屋町から文化の頃には本籠町に移っているが、唐船修理方の職務に当たり、また材木商を営んでいたという。文学者「平山芦江」は、この家の生まれである。(長崎南公民館 どじょう会調査による)

 <付記>
 産能大学最高顧問「上野一郎」氏には、家伝の貴重な資料をご提供戴きました。厚く御礼申し上げます。

参考文献・他

長崎画史彙伝 古賀十二郎 昭和58年 大正堂書店
長崎の時計師 渡邉庫輔 1952年 日本時計倶楽部
肥前長崎の刀剣 大喜正勝 昭和51年 銀扇社



 < 上野 一郎 様からのお便り >

 このたび銀屋町自治会より、『銀屋町の傘鉾「流金出世鯉」の作者は上野家5代の若瑞ではないか。』とのご報告を受けました
 その調査内容を拝読しましたが、私も納得のいく論考でありました。報告のとおり傘鉾収納箱に記された作者「山本泰助」が上野若瑞であるとすれば、若瑞の血を受け継ぐ私といしましても、喜ばしいかぎりです。
 これまで上野家には芸術と科学技術の二つの流れがあったといわれてきました。銀屋町傘鉾「流金出世鯉」は、まさにその象徴的な造形であり、非常に感慨深いものがあります。
 終わりに、丹念に調査された銀屋町の皆様のご努力に対し、また190年以前に製作された「流金出世鯉」を現代に引き継ぎ、保存してこられたことにも、併せて心から敬意を表します。