公開を急ぎたいので当面はスマートフォン向けに作成します。最終的にはPC向けになると思います(文量が多い為)が、少しずつ更新していきます
このページは、鯱太鼓OBの荒木さんの要望により、荒木さん所有の資料を基に作成しました。特に、令和6年鯱太鼓に初めて参加する方へ伝えて欲しいそうです。
高木 忠弘 かく語りき
(最終更新日:令和6年6月3日)
< 資料 >
- ①長崎まちづくり人材事情「縦横無尽Ⅱ」第三章
『鯱よ舞え! くんちの空に』(平成11年) - ②長崎くんち塾 平成17年1月例会 第二部
塾生講和「いつまでも夢を いつまでも青春」 - ③長崎くんち塾 平成22年11月例会 第二部
「銀屋町傘鉾について」 - ④長崎くんち塾 平成26年3月例会 第二部
鯱太鼓について - ※資料はそれぞれの取材や講演で高木氏が述べられたことを編集したものです。重複もあり、期間も開いていたりするので、このHPでの掲載にあたって私が再編集していることをご了承ください
< 鯱太鼓誕生まで >
- 昭和57年の長崎大水害後に、町内の高田家に保管されていた傘鉾の飾の「鯱」を初めて見て、胸に「グッ」とくる感動を覚えた。
- その高田家出身の町内のおばあちゃんから「こんな立派な傘鉾があるとやっけん、何かやってみんね」と言われ、火がついた。
- その年の暮れの青年部の集まりで、「どうせ出すなら担ぎ物」と決めた。何を出しても苦労は同じ。それなら一番好きな担ぎ物でやりたかった。
- 「コッコデショ」を奉納する勇気はなかったので、新しい担ぎ物をと考えた。更にオリジナリティを加えたかったので、和太鼓を組み合わせることにした。
- 自治会からの理解を得るのに大変苦労した。最後は先輩方が青年部を信用して協力して下さり、特に資金調達には奔走していただいた。感謝しかない。
- 昭和58年のくんち終了後に練習を始めた。「来年出るのか?」の問いに「再来年」と答え、びっくりされたことを覚えている。
- 3年かけて、試行錯誤しながら研究を重ね、皆で話し合いながら所作や掛け声を体験して理解する手法で作り上げた。
< 出会いに感謝 >
- 初めての奉納の時は素晴らしい出会い・奇跡のような出会いの連続だった。沢山の人にご支援戴き、鯱太鼓を立派に奉納することが出来た。
< 据太鼓への想い >
- 長崎くんちの奉納踊りの中で、和太鼓の奉納は見たことがなかった。担ぎ物と和太鼓の組み合わせで個性を出そうと思った。
- 昭和60年の奉納で、「あの太鼓は借り物」と言われて発憤し、自前の太鼓チームを作ろうと思った。
- 据太鼓の練習は週2回。惰性ではなく好きだからやっていると思うが、やっと定着してきたと感じる。底辺の拡大も行いたい。
- 太鼓はハーモニーが足りない部分があるが、それこそが和の心である。口伝での継承の補助に音譜も使っている。
< 稽古での心構え >
- 「心技体」と言われるが順番が違う。「まず体を鍛え、次に心を鍛え、そして技を磨く」
- くんちは、「心を一つに、気持ちを一つにする」。それで、くんちを乗り切ることができると考えている。
- 技は大事だが、技だけを重要視しするのは危険。技に走って、本質を見失うな。
- 理屈より汗を出せ、身体を動かせ。練習では長崎で一番になれ。そして心をつくれ。和の心を忘れるな。
- 「今は、走れ走れ。唄え唄え。」と言っている。唄が揃わないと櫓は上がらない。廻らない。タイミング(息)も合わない。
< くんちについて >
- 「くんちとは?」と聞かれたら「くんちは青春」と答えている。幾つになっても「血気盛んで、夢中になれる」
- 「なぜ、くんちに興味があのるか?」の問いには、「シャギリを聞いて育った」「ただ好きだから」と答える。理由は判らない。
- くんちは神事です。良い奉納をすること。神人和楽、神様は見てくれています。
- 遷御祭と御着祭では鳥肌の立つ空気を感じた。年番町の時は、紋付きを着てこの神事に参列する機会を得て欲しい。
< 理想の鯱太鼓 >
- 吉村元自治会長は「初奉納から50年後に長崎の人々の評価を受けたい」が口癖だった。そこを目指しもっと良い物を作り上げたい。
- 博多山笠で「先輩を大事にしよう」という伝統を目撃し感動した。鯱太鼓にも同様の伝統が生まれ、継承されることを願う。
- 「他町の庭先のお手伝いに行きなさい」と言っている。庭先を知り、苦労も知って、現場・庭先一体となってくんちを乗り切るべきと思う。